葬儀ー「別離は出会いの縁」

imagesBJ3JIS8P

わたしたちにとって、愛するひと、

親しいひととの別離ほど、

悲しく寂しいことはありません。

それだけにお葬式は、

そのひとに対するこの世での

最後のご奉仕として、悲しみのうちにも厳重にとりおこなう儀式です。

しかし親鸞聖人の教えに導かれるわたしたちにとって、

そこに見失ってならない一点は、

別離は 出会いの縁

であることです。それはそのひととの死別によって、

わたしは、果たして出会っていたか”が、改めて問いかえされてくるからです。

わたしたちは、かりにそのひとと、常に顔をつきあわせて

暮らしていたとしても、愛するがゆえに、

親しきがゆえに、いな、肉体をもつことの悲しみゆえに、

真の出会いが願われつつもそれがおおわれていたのでないでしょうか。

しかしいま肉体が眼前から消え去ることにおいて、

はじめてそのひとと出会う縁があたえられたのでした。

そのひとが、どのような生きざま、いかなる死にざまであろうとも、

それはそのままわたし自身に、生きることのまことの意味を問わしめてくる

善知識(人生の教師)だったのです。

永別どころか、かえって出会い始めの儀式がお葬式です。

よく弔辞などに、「安らかにお眠りください」といわれますが、

眠っている善知識などのおられるはずはありません。

むしろ眠っているのは、こちらだったと気づかされます。

お釈迦さまは、

肉体逝くといえども 法身在ます

と説かれています。法身とは、南無阿弥陀佛の本願にかえりきった

“純粋精神”といえましょう。肉体の死をくぐって純粋精神となり、

「生まれた意義と、生きる喜こび」にめざめよと、

生者のうえにうながし続ける本願の尖端というほかありません。

いまや、自らの生を完結して純粋精神となられた佛者、

その教えに対座する御佛事、

それが読経を中心とするお葬式のこころといえましょう。

(池田勇諦)

 

This entry was posted in 池田勇諦(前住職)の話. Bookmark the permalink.