「善悪」を超える

テレフォン法話(2019/12/16~31)

「善悪」を超える

「親鸞さまが生涯をかけてあきらかにしていただいた教えを聞き「ありがとうございます」と感謝するのが報恩講のおつとめです」。それは、「私たちが日ごろ考えたこともないようないのちの意味を教えてくださった方が親鸞さま」だからです。

(「ほとけの子」リーフレット「報恩講」青少幼年センター刊)

「私たちが日ごろ考えたこともないようないのちの意味を教えてくださった」親鸞聖人。私の考えだけでは、必ず人生が行き詰まる。私の考えとは違う「いのちの意味」を知らされたおかげで、生きていくことができた。その喜び、感動が報恩講をお勤めしてきた歴史でありましょう。

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ならば、私たちは、日ごろ「いのちの意味」をどう考えているのでしょうか?役に立たなくなったり、迷惑を掛けたりするような「いのち」には意味がないと考えてしまいます。評価されない、生産性が無くなったと思うと「いのちの意味」を認められなくなります。自分にとってプラス価値があると思える時は、「意味」を感じ、マイナス価値が多くなるほど、「いのちの意味」を感じられないのが私たちの日ごろの考えではないでしょうか。それは、私にとっての「善」を求め、「悪」を恐れる生き方でしょう。

そういう私たちの日ごろ考えている「いのちの意味」とは異なった、それこそ「私たちが日ごろ考えたこともないようないのちの意味を教えてくださった」親鸞仏教、念仏の教えとは、どういうことなのでしょうか?

それは、「善もほしからず、悪もおそれなし」という世界を示されたと言えます。具体的には、「善悪を超える」という生き方です。

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では、「善悪を超える」とは、どういうことか。それは、「事実に立つ」という生き方です。現前の事実を生きていく。それは、「いま・ここ」から歩みだしていける生き方を教えられているのです。

自分とって都合のいいことを「善」と感じ、都合の悪いことを「悪」と受け止める「自己中心的な心」は消えることはありません。しかし、その善悪の分別心を絶対化しないという生き方が与えられてくるのです。

では、そんな生き方がどうしたら、開かれてくるのでしょうか。私のその「善悪の分別心」の、虚偽性、差別性、暴力性を徹底的に知らされるということだと思います。私のこの「ものさし」の歪み、迷いを知らされるからこそ、そこを立場としない、否立場とできない生き方が与えられるのだと思います。

念仏の教え「善悪を超える」という生き方は、誰にも代われない、一度限り、やり直しのできない人生を深く、丁寧に生きていくことを願ってくださるのです。

 

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