中日新聞 〈人生のページ〉 ㉕

自ら 身を (とも)

                  法華経第二十三章

 

このことばは師仏の教えによって覚醒(かくせい)した仏弟子の覚悟のほどを告げる、

(ねん)(しん)供養(くよう)である。

供養は「仏・法・僧の三宝に奉仕する」こと、

つまり「よき師・よき教え・よき友」との出遇(であ)いに開かれる

人間の生き方をあらわす。

それはわたしたちが、我欲に奉仕した孤独・不満・不安の生き方から、

連帯・満足・安立を開く「帰依三宝」の知見に立脚することをいう。

そこにあたかも、蝋燭(ろうそく)が自らを(とも)して周囲を照らしていくように、

共なるいのちの呼応をよび起こし、

共に同一のいのちの世界を呼吸していくのだ。

その意味で「死者供養」ということも、

死者との同一の呼吸圏を、生者自身が見いだすことのほかにはない。

“お彼岸„に(おも)う。

 

2002年9月22日

 

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