念仏による「救い」とは

 

念仏によって「たすけられる」ということは、どういうことでしょうか。思いますに、「すでにたすかっている」ということに気づくこと(自覚すること)が、「たすけられる」ということでないかと考えています。

では、「すでにたすかっている」ということの意味は、どういうことでしょうか。いつでも・どこでも・どういう状況でも、「今・ここの・私」として

しなければならないこと

できること

したいこと

があるということです。その人にだけ与えられた「現場」と、その人にしか果たせない責任と使命があるということです。その「使命」があることが救いなのです。

しかし我われは、その責任と使命が与えられている(たすけられている)にも拘らず、都合のいい現実には、向き合いますが、都合の悪い現実に対しては、拒否します。存在自体は、都合の善し悪しに関係なく出会っている現実を受け入れて生きているのですが、心が認めないのです。

 

よく考えますと、それがたとえ、どんな現実であっても、まずそれと「向き合う」ということがなければ、何も始まらないのです。向き合えば、そこから新しく始めていけるのです。「一歩」足を挙げて、立ち上がっていけるのです。(念仏の教えが開く自覚的な救い)

しかし、我われは、いつでも現実に対して、自己中心的に善し悪しを決めつけ、自分にとって、善きものは受け入れ、自分にとって悪しきものは排除する、という冷酷な生き方になっているのです。だから都合の悪い現実に出会ってしまうとそれを徹底的に排除して、生きることが始まらないのです。その「現場」を 「唯一性・一回性」の人生を本当に生きないで、傍観者―被害者的(恨みと愚痴)に生きてしまうのです。

 

実は、我われのこの生き方が、どれほどいのち(自他)に対して、暴力的であるか。日常の心、善し悪しの心は「存在への暴力」としてはたらいているのです。

念仏による救いとは、その生き方が 罪(迷いの歴史を生きる身)であることを知らされながら、「今・ここの・現実」を新たに発見し、「向き合い」続けていくこと、「今・ここを生きる者」になることです。

具体的に「普くもろもろの衆生と共に」苦労していける人間に育てられていくことです。

他者(自己)と関わり続けていける「意欲」(信心)を賜ることだと思っています。

それを先人は、

真宗門徒としての使命をいただく。「ご用」をいただくことである。

「ご用」をいただく事がたすかるということである。ご用がみんな無くなって、楽になってたすかるのでない。限りのないご用を、どこまでも、どこまでも、生涯かけて、いただいていく。自らの「思い」を破られつづけ、「同朋」とよばれる世界を開き続けていくことである。自分だけの世界の中に閉じこもって、自分だけのことを喜ぶことが救いではない。

(たとえ、個人的な安心を手に入れても本当の救い、満足にはなりません)

 

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